昭和四十六年十月二十一日
x御理解 第十八節『此方の事を神神と言うが、此方ばかりではない、ここに参っている人々が皆神の氏子じゃ生き神とは、此処に神が生まれると言うことで、この方がおかげの受けはじめである、皆もその通りにおかげが受けられるぞ』
如何に神の氏子じゃと言うても、皆がこの通りのおかげ受けられる、おかげ受けるための精進と言うか道と言うか、その道を行じなければ、生き神の道を行じておる、金光教の道を奉仕しておる事にはならない、この御理解十八節と言うのは金光教の御理解なんですけれども、若しこの御理解十八節が今のこの時代にあっておったら、金光教の一番中心をなす、御教えになるだろうと言われております、御理解ですね、人間が神になるとか何とか言った様な神、人間が神と言うのは天皇陛下だけと言った様な思想の時代、ですからけれどもそう言う事と同時に又、その時代であろうが今の時代であろうが、確かに私どもが、精進する事によって、生き神への道を辿る事が出来、成程これが生き神の境地であろうかと、いわゆるこの世、極楽の安心と言うか喜びと言うか、そう言う安心の生活、極楽の生活が出来る。
この方がそのおかげの受けはじめであって、皆もこの様なおかげが受けられる、皆もそう言うおかげが受けられる、一つの素質と言うか、生まれた時すでに頂いておるもの、けれどもその頂いておるものであっても、それがそのままであったんではつまらんのです、まあ言うなら宝石の原石の様なものです、いくら翡粋なら翡粋の原石であってもそれが矢張り、磨き上げられると言うかね、そしてはじめて宝石としての値打ちが在る様に人間もそうです、如何に神の氏子じゃと言うてもです、その道を辿らなかったら矢張りそれは只の人であると言うのであって、生き神になる神になると言う事は出来ない。
金光様の御信心で私ども教えを頂いて、確かに一段一段と言う御教えがありますね、はじめから先生はおらん、一段一段上がって行く、手習いも同じ事と仰る、その一段一段上がって行くと言う事、その一段一段神様に向かって、近づいて行くと言う事は一年一年と言う意味じゃないのですよね、だから年数さえ永くなれば生き神様になれると言うものじゃないです、生き神様と言うと何ですけれど、本当に助かった姿と言う事なんですよね、私どもはその助かりを求めておるのですから、ですからその本当の助かりと言う事に、一段一段近づいて行かねばいけません。
一段一段接近して行かなければならん、と言う事は年数じゃないと言う事、福岡の初代、吉木栄蔵先生が受けておられる信心、馬鹿と阿呆で道を展けと、こう仰る、金光様は本当に馬鹿と阿呆で道が展けるかと言うと、馬鹿に紋付き袴着けさせたって、着せさえすれば先生と言う事ではないのです、馬鹿じゃ矢張りお取り次ぎは出来ません、阿呆じゃお取り次ぎは出来はしません、ですから私どもがですね、本気で馬鹿にならして頂く、阿呆にならして頂く稽古と言う事、人間の世界にはやはりあれは馬鹿だ、あれは阿呆だと言うのがありますよね、あれはさら馬鹿と人が、だからこの解釈は惜さましてね、やはりこの世に人間として参って来て、病気のためにそうなる人もあるし、愈々これは業の深いと言うかめぐりの深いと言うか、でしょうね、けど金光様があの、福岡へ教えておられる馬鹿と阿呆で道を開けと言うのは、そう言う意味の馬鹿と阿呆じゃない、所謂馬鹿と阿呆で道を開くと言う事は馬鹿と阿呆で一段一段神様へ接近して行けと言うことなんです。 それが例えば一段一段神様に向かって近づいて行かないならば、それはもう普通の人間である、信心のない者も変わらん只お願いをしておかげを受けたいと言うにすぎない、如何に世の人が顔にかかわる様な事を言うても、腹を立てな神が顔を洗ってやるとどんなに人が馬鹿だ阿呆だと言うても、自分の顔にかかわる様な事を言うても、心を神に向けて行きよれば、神様が顔を洗ってやると仰るが、神様が顔を洗って下さらん様な信心じゃつまらんと言う事です。
金光様の信心しておるが、一生貧乏で終わらっしゃったちゅうようなもの、これは神様が顔を洗っとらん証拠じやないですか、成程食べるに事欠く、住む家もないと、言った様な人がです、金光様の信心しよってどうしてあげん貧乏しなさるじゃろうかと、例えば言われておっても、それが五年たち十年たちする内にはです、ああやはり金光様の信心ちゃ、素晴らしいかの、ああ言う人達がああ言う立派な家に住まわれる様になられた、ああ言う身分になられたと言う様になった時に、はじめて神様が顔を洗って下さったのですよね、ですから神様が顔を洗って下さらんごたる信心じゃ、それは私どもの心はです、神に向かう信心とはわが心が神に向かうのを信心と言うのだと仰るが、如何に生き神になれる素質、素要をもって信心しよるからと言うても、本当に神様が顔を洗ってくださる様なおかげも頂けんことでは、金光様の信心させて頂く値打ちはないと言う事。だからそこのところをです。
例えばどの様な人が顔にかかわる様な事を言うても、成程馬鹿といわれるかも知れん、阿呆といわれるかもしれん、盗人じゃ乞食じゃと言われる様な、言うなら極端なことを言われるかも知れん、信心しよってどうしてあげん家の中ががたがたしとるじゃろうかい、信心しよってどうしてと、例えばそれはそれが難儀の様相ですから、それは私どもにいうならば付きものの様なもの、いつもそう言う難儀はある、けどそう言う難儀の中からです、私どもが開放されるおかげを頂くためにです、私どもが本気でひとつ馬鹿と阿呆にならなければいけない、馬鹿と阿呆にならして頂くと言う事が、生き神への道である、一段一段神様へ近づいて行く事である、だからと言うてそれが本当の馬鹿じゃ出来ん、本当の阿呆じゃつまらんと言う事です、そこでならば馬鹿と阿呆とは、どう言う事かと言うと、愈々大きな心、豊かな心と言う事なんです。
皆さんとっても私はこの御理解十八節は、金光様を信心させて頂くものが、どうでも皆もこの様なおかげが受けられるとおうせられるのですから、然も教えその事を教えておられる、それが教祖金光大神の教えのすべてだと言うてよいのですよ、信者のすべてが生き神になる道を目指す、ならば私どんも十年も二十年も信心しとる、二十年も信心しとるから、そうかと言うと一段一段です、神様に向かって進んで居ないとするなら、そう言う信心じゃつまらん、いつまでも神様が顔を洗って下さらん様な信心では駄目だと言うこと、初めはこうでしたが、信心させて頂く様になったらこう言うおかげを頂きましたと、心の上のことも形の上の事も、言えれる信心でなからねばいけんと、それには一つ本気で馬鹿と阿呆にならにゃいかん、愈々豊かな愈々大きな心にならして頂く、そのためにはどう言う信心をさせて頂いたらよいかと言う事をあらゆる角度から教祖様は説いておられると私は思います。
そこてですね、私どもが生き神への手掛かりとでも申しましょうか、その手掛かりと言うのは、どう言う事かと、私どもの一生の上には様々な大きな節があります、又は一年なら一年を振り帰ってみますと、その一年の中にもあああれが一年の中での言わば一つの節でも、あったろうかと思う事があります、小さく言うと一日の中にでも、様々なところを通らせて頂くでしょう、例えば腹の立つ様な問題が起きた時には、もうそれは今日の節であります、困った事が起きたならば、それは今日の今日的な節です、生き神への道が段々高められて来る、一段一段近ずいて行く、我が心が神に向こうて行くと言うのは、永年信心しよれば、神に近ずいて行く事ではないと、一段一段と言う事は私どもが一日の中に於いてもです、その一段一段があると言う事。
一年の上に於いても有る一生の上に於いても有る、その大きな節の場合まあ中位の節、小さい節、その節がです、いつの場合でも信心でそこを乗り越えさせて頂くと言う事に、一段一段神様に近づかせて頂くと言う事になる、その節を全部失敗しよってから、生き神様になる筈はありませんよ、生き神への道、腹の立つ事が起こった、それじゃけん腹を立てた、それじゃったらもう節で折れた様なもんです、それは困ったのと言う事が起こった、それをもう困ったので終わったらその節はそこでとまっておる。そこでです私どもはそう言うそれを節おかげを頂けれる信心、ああこれが今日の節だなと悟らせて頂いて、如何にそれを合唱して受けて行くかと言う事を工夫する、それがいわゆる生き神の道を辿らせて頂いておる、歩かせて頂いておるんだと言う事になる、一段一段と言うのは、一段一段と言うのはそう言う節の事なのです。
信心しよってどうしてこう言う事がおこるじやろうかと、言うた時にはもうもう節から折れておる時です、信心させて頂いとるおかげ゛でこのぐらいですんどると思うた時には節を見事に乗り越えておるときです、だから生き神への道に信心の焦点が置かれておる時には、信心が生き生きと実に実に楽しい事になるのです、もう出来るだけ節が在る方がよい良か、出来るだけ大きな節になるが良かですよ、大きな節ならがばっとつまれる、それを例えば小刻みにです、一日にでもある節を本当に大事にさせて頂いて、それを乗り越えさせて貰う、合掌して受けさせて貰う、ああ神様のおかげで信心のおかげでここをのり越えさせて頂けれると、言う稽古を積んで行くときです、中位の節もまた有難く受けられ、大きな節の時にはさあどっこい今こそ神様へ飛躍する時の節だと言う事になって来るのですよ。
私は私の一生と言うか、一生じゃないですけど、いま私の信心と思うてみますと、その節の度に大きくなったと言えます、言うなら節の度に信心が進んだ、節の度に生き神の道をとらせて頂いたと言う風に感じます、もうこれはお道の信心の、金光教信心の独壇場ですよね、人間が神になる道なんて、けれども確かにそうです、一つ本気でですね、今日一日の中に起きて来る、それこそ様々な節が御座いましょう、それを如何に有難く、如何に元気な心で、受けて行く、さあそこんところがです、馬鹿と阿呆でないと出来ないと言う事です、大きな心にならにゃ、より豊かな心にならにゃより美しい心にならなければ、美しい心で受けて行く、馬鹿と阿呆で受けて行く、そう言う信心をさせて頂いて、われながら生き神への道を辿らせて頂いていると言う、一つの自負とでも申しましょうかね、そう言う覚悟のもとに、信心を進めて行くなら、信心は愈々楽しい事になって来る、一段一段生き神への道へ近かずかせて頂く事が、もう有り難うして楽しくてと言う事になるのですそう言う道を歩かせて頂くから、神が顔を洗ってやると言うことのおかげになって来るのですよ、馬鹿といわれた阿呆といわれた、泥棒じゃといわれた、乞食じゃといわれた、それでも腹をたてなと、神が顔を洗ってやると仰る、信心させて頂きよって笑われる様な事が起こって来る事もある。
御大祭の前日の時、松栄会の方達が、御神殿、内殿の清掃、ここんところが、廊下が余りすべすべしよるもんですから、金のはしごをかけて天井を拭いておる時に、すべったそして横だわしに倒れて、昌一郎さん手をまあひどく打って折れたが、ひびの入ったか、まあとにかく事になった訳なんです、然も御大祭の前の御用をさせて頂きながら、然も内殿、白衣を皆つけてねそして身を清めてから、内殿に入るのです、皆それだけの事をさせて頂いとるにも、かかわらずこう言う事が起こるとはどうした事だろうかと、頂いたらもうそれまでの事、だからこれは信心の薄い人、信心の無い人ならばです、神様は御座るか御座らんかわからんばのと言う事になるのですよ、神様の一番そばににおんなさるとじゃけん、神様がそばにおってから、ほらっといってつかまえてやらっしゃればよかとに、そう言うおかげも頂かれと言うのは、神様は御座るやら御座れんやらわからんと言われん事はないのです。
だからそう言う時にです、だからそう言う時にです、それを済みませんと言うか、例えて言うと昌一郎さんがです、他のものはそれこそもう精進 済しとったかも知れん、けども昌一郎さんだけはしとらじゃったかもしれん、そして言うならば平気で白衣を着けて中に入っとったかもわからん、これはかもわからんのよ、心にどう言う不浄を犯しとったかもわからん、神様のそばには本当にそう言う気持ちでなからにゃ、寄り付かれんだから神様はお気付けを下さったのかもわからん、からもう本当に痛っと言う前に済みません、と言う言葉がもし出るとするならばね、その節を見事に受けた訳です、そして改まるところを改まり詫びる、ところを詫びると言う事になる、そう言う神様の身近かな身近かな御用をさせて頂いておってもそう言う事がある、そう言う事がある時にそれをどう受けるかと言う事。 それをお互い家庭に帰ってです、信心してどうしてこうゆう事がと、言うときにもうその節をそこに止まっておる様なものである、信心しておればこそと言う頂き方、そこに節を乗り越える事になる、言うならば神様に一歩前進、方へ向かって一歩前進した事になるのです、今日は皆さんここんところをですね、今日は私は神様へ此の方のことを神神と言うが、皆もこの様なおかげを受けられる、ああそうですか、そんならどう言う信心させて頂いたらよいですか、とこちらからいわにゃんとこですよね、皆もこの様なおかげを受けられる、ああそうですか、それならどう言う信心させて頂いたらよいでしょうかと、私はこう向こうて行かにゃいかんと思います、それを私は皆さんに答えて上げてるわけです、皆さんがそれならどうして生き神になれますかと、尋ねられたところにそれにはね、まず私どもが馬鹿と阿呆になる稽古せにゃいけんと、言うて本当のさら馬鹿じゃ出来ん、本当の阿呆じゃ出来んと言う事、本気で馬鹿と阿呆になると言う事は、言うなら愈々豊かな心大きな心、愈々美しい心になる事だと言うこと。
馬鹿と阿呆と言う事は、しかもそう言う馬鹿と阿呆になると言う事は、いつどう言う時にそう言う事にならなければならんか、と言うと一日の中にです必ず節があると言う事、一年の上にも節がある、一生の上に於いても尚更大きな節が有ると言うこと、その節を神様へ一段一段の階段と思うと言うことを、今日皆さんに聞いて頂いた訳です、そう言う階段がちゃんと有る訳です、生き神に向かう階段が、その階段を私どもは上さに上がらんな下さにおりよる、どうしてと言う時には下さに下りっとる、ああおかげと言う時には上さに上がっとる、もうとにかくですね、ぷりぷりはらかいたり情けないと思うたり、いらいらした時にはまずまず、それは生き神とは反対の道を歩きよると言う事になるとです、そこで本当に私どもが生き神になる道を頂かせて頂こうと言う、ところを一つしっかり握っとかにゃ、只手前のところのおかげ頂こうじゃいけんのですよ。
金光さまの信心はどこまでも生き神への精進であると、まず眼目のところをしっかり握っておってそして腹の立つ事であろう、いらいらする事もあろうそこんところを如何に有難く受けて行くか、元気な心で受けて行くかと、言うところに焦点を置いて、それは上がったり上ったりそれはありましょう、そこんところを倒れ転びと言うところですけど、その倒れ転びしながらでもです、二回も三回も失敗しながらもです、もう五回目には上の方に上がっておると言う様に波状形にでもです、せめて波状形にでも生き神への道を愈々辿らせて頂くと言うね、精進させて頂くと言う事、私はこの御理解第十八節と言うのは、本当に金光教の信心の中心をなす程しの御教えと思わして貰います、私どもが愈々神心例えば私に腹の立つ様な事を言った人が在ると致しましょうかけども、その人ならばそげんも言いたかろうとおもう心なんです、悪い者でもあれは悪い者だと言う心では、神様に通じないと仰る、あれは悪いものであってもあの人なら、あああるのが当たり前であろうとこう言う心であります、物の言い方でもポンポン、ズケズケ言う、何事言いよるかと言う心では、神様には通じん成程あの人の性格から言うなら、ああ言う積極的な人だから、あげんもやっぱりいわにゃ居られまいと言う心で、神様へ願う、そう言う心が神心とおっしゃる、素晴らしいですね、私はこの御教えを頂いた時には本当にそう思いました、成程歯かゆいしてこたえんと言う事で、神様を念じよったっちゃ、いかんと言う事です、その様にして生き神への道を精進させて頂く、御道の信心でして言える事、御道の信心としてはじめて頂かれるおかげ、皆さんがめいめいの家庭でおかげを頂かねばなりません、私は本当にここんところを精進させて頂いとるか有難いと言うことにならにゃいかん、なら家内がそれについて来る、だからこそどけん考えたっちゃ有難い事と言う事になる訳です、ちょいとおかげを頂いて有難かったっちゃいかんとです、こう言う時にです例えば腹の立つ様な問題のときに、腹をたてんで済むほどしのおかげを受けておることが有難いと、言い暮らしが出来れる様な、おかげを頂きたい、私どもが信心をさせて頂いて、いつまでも神様が顔を立ててやると仰られるが、神様が顔を洗っても下さらん、顔を立てても下さらん、と言う様なものなら、私はおおいにここに一つ、一心発起させて頂いて、成程自分はおかげいただかんならんとはおもうとるけども、神様にならにゃならんと言う様な思いがない事を一つ本気で悟らして貰う、生き神への道への転換と言うかね、願わせてもらはねばならんと思います。どうぞ。